年末が近づくと、思い出す昔話があります。『かさじぞう』のお話です。老若男女、皆が知るこの昔話には、大きな教えが込められているようです。(かさじぞうのお話は、下記に記していますのでご覧ください。)
このお話が教えてくれていることは、まず「布施の心」。見返りを求めない、清らかな心で施すことが、真実の布施であり、その布施行の尊き心が説かれています。
おじいさんは、真実の布施の心でお地蔵さまに笠を施しました。また、家で帰りを待つおばあさんも、「良きことをしましたね」と清らかな布施の心をお持ちです。そして、結果的に、その「布施行」によって、老夫婦は大きな財宝を手にしました。この話でいう金銀小判、たくさんの食べ物などの財宝とは「幸せ」のことでしょう。
私たちは、心のどこかで、「見返り」を求めてしまうものです。しかし、このお話の老夫婦のように、見返りをもとめない心、【囚われのない心】こそ、大切なのかもしれません。囚われのない心の中にこそ、本当に幸せがあるのでしょうか。
その囚われなき心が仏教の真髄ともいわれ、かの有名な般若心経で説かれる【空(くう)】なのでしょう。誠に正しい空の境地に達すると、大きな所得がある。この所得こそ、「無所得の大所得」ということでしょうか。
そして、もう一つ大切な教えは、【いまここに】ということです。この老夫婦は、その日の食事にさえ不自由する貧しい生活であるにも関わらず、目の前のお地蔵さまが寒かろうと、笠(この話では老夫婦にとっては食べ物と同じ)を差し出すことができたのです。未だ来ぬ「未来」への不安を気にもせず、真心で与えることができたということ。それは、この老夫婦は、【いまここの瞬間】を大切に、まさに文字通り、今の一瞬に「命懸け」。今という時間を大切に生きているということです。実に清々しく、なんと潔い生き方でしょうか。
とはいえ、この話は教訓を学ぶ説話であります。老夫婦と同じ状況で、同じことをするのは大きな勇気が必要でしょう。しかし、その尊き御心は学ぶべきことが多くあります。
老夫婦のように、一番大切なものを施すことはできぬとも、施しはいつでも出来るものです。
その一つに、「誰かの幸せを祈る」という施しもあります。御仏に幸せを祈ることも、大きな「こころの施し」でしょう。
どうか、今年一年のありがとうの心を、そしてお世話になったあの人の、幸せをお祈りください。きっと、お地蔵さまが、ニコッと笑って下さるでしょう。そして、知らぬ間に、大きな財宝【幸せ】があなたの家に訪れるかもしれません。
ある村に、財はなくとも、心は誰よりも富める、心優しい老夫婦がおられました。その老夫婦、お正月に食べるお餅さえも買うお金がありません。そこで、おじいさんは手作りの編み笠を売りに町に出かけました。しかし、大晦日のこと。だれも編み笠には目もくれません。日も暮れて、売れ残りの傘をもって、トボトボと帰路につきました。その道中、村のはずれのお地蔵様の前までやってくると、寒空からは雪がちらほら。お地蔵さまの頭にも雪が積もっています。「これではお地蔵さまも寒かろう」と心優しいおじいさんは、売り物の笠をお地蔵さまの頭にかぶせるのです。しかし、笠は5つ。一つ足りませんでした。そこで、申し訳なさそうにおじいさんは、自分のかぶっていた笠をとり、お地蔵さまにかぶせ、自分には雪が積もりながらもお供えをされるのです。そして、一年無事のお礼と、みんなの幸せをお祈りしたのでした。
家に帰って、申し訳なさそうにおばあさんにそのことを話しすると、おばあさんは「それは良いことをされました」と大変喜ばれました。そして、大晦日とはいえ、御馳走は一切なく、寒い風が吹く中、寝床につくのでした。でも、お地蔵さまは喜んでくださっただろうと思うと、心は満たされ幸せでした。
そして、夜も更けた頃、外から「しゃらんしゃらん」と音が聞こえてきます。また、何か重いものを引きずっているような音も聞こえてきました。ちょうど自分の家の前までくると、「ドシン」と何か重たいものが置かれた音です。びっくりして戸を開けますと、それはもう、たくさんの金銀財宝、そして御馳走がいっぱい。お正月に食べるお餅もたくさんあります。そして、遠くの方には、六体のお地蔵さまが歩いておられる後ろ姿が見えたのです。頭にはあの時かぶせた編み笠をかぶっておられます。そして、その後、おじいさんおばあさんは幸せに暮らしたとさ。